尾張徳川家の格式
 江戸時代の大名は、徳川将軍家の支配のもとで、格式(家格)によって、序列化されていました。格式の基準となるのは、石高・官位・席次(殿席)、将軍家との親疎関係などでした。尾張家は徳川家康の九男義直を祖とし、十男頼宣を祖とする紀伊家、十一男頼房を祖とする水戸家とともに「御三家」と称され、将軍家と最も血縁関係が近いことから、当主は代々「徳川」を称し、葵紋を使用することが許されていました。また、石高も61万9500石と多く、支配領域も広大でした。そのため、尾張家は、幕府から特別な待遇を受ける家柄として、諸大名のなかで最も高い格式を有していました。
 将軍の居所である江戸城では、年を通じて様々な儀礼が行われていましたが、尾張藩主が登城した際には幕府の諸役人はすべて下座することになっていました。諸大名は格式ごとに城内の詰所が定まっており、尾張家の詰所は、紀伊・水戸両家とともに、松の廊下に沿った「大廊下上之部屋」という格式が最高の部屋でした。この部屋の中では尾張・紀伊・水戸の各家が着座する位置も定まっていました。詰所を出で、将軍に拝謁する時、例えば、参勤交代の御礼では諸大名が御殿の表向(儀式と政治を行う空間)にある黒書院および白書院という所で拝謁するのに対して、尾張家など御三家は、中奥(将軍が日常生活を過ごし、また政務を執る空間)の御座之間で拝謁しました。将軍代替わりの重要な政治的行事である武家諸法度の公布の時も、御三家は御座之間で拝謁し、格式が一番高いことから、大名のなかで最初に公布されることになっていました。その際に将軍から「今日法令を申出す。何れも怠慢なふ仕置等念を人れらるる様に」と、敬語を使用して言葉をかけられましたが、その他の大名に対する言葉は「何れも怠慢なふ仕置等念を入れる様に」で、他の場合でも「念を入れい」と命令調でした。将軍の言葉遣いも大名の格式ごとに異なっていたのです。
 次に、官位について見てみると.尾張家では元服後に従四位下、続いて従三位中将に叙位任官され、さらに、参議兼官で権中納言となり、最終的には従二位権大納言まで昇進することが許され、これが極位極官となっていました。武家官位の序列は、太政大臣―左大臣―右大臣―内大臣―大納言―中納言―参議―宰相―中将―少将―侍従―四品―諸大夫となっており、内大臣以上は将軍のみでしたから、尾張家の従二位権大納言は、諸大名のなかでは最高位となります。紀伊家の官位も尾張家と同様で、水戸家は従三位権中納言が極位極官でした。尾張家では初代義直・2代光友・9代宗睦・11代斉温・12代斉荘・15代茂徳が従二位権大納言まで昇進しています。3代綱誠・4代吉通・6代継友・8代宗勝・13代慶臧は従三位権中納言でした。10代斉朝と14代慶勝は異例の正二位権大納言まで昇進しています。また、2代光友の時に創出された分家の高須松平家(四谷家)と梁川松平家(大久保家)は、ともに従四位下少将まで昇進しました。これは国持大名とほぼ同格で、江戸城の詰所も島津家や伊達家などの国持大名と同じ大広間席でした。このことから、石高は3万石と少ないものの、尾張家の分家の格式は高かったといえるでしょう。
初代藩主徳川義直が編纂した「御系図」(徳川林政史研究所所蔵)
 御三家は、将軍継嗣を出す家柄として将軍家を支える存在であるとともに、幕政を補佐することもありました。例えば、3代将軍家光による親政が開始される寛永初期の段階では、老中制を中核とする政治機構がまだ整備されていなかったことから、初代義直は頼宣・頼房とともに「御内用」と称して頻繁に江戸城への登城を命じられています。また、家光の後を継いだとき、4代将軍家綱はまだ11歳であったことから、2代光友は尾張に戻らず、頼宣・頼房とともに約7年間にわたってこれを補佐しました。さらに、時代が下がって寛政期に行われた老中首座松平定信による改革政治では、9代宗睦が紀伊家の治貞・水戸家の治保、11代将軍家斉の実父一橋治済とともに積極的にこれに関与していました。
 このように、尾張家は、徳川将軍家による支配体制を維持するために、諸大名のなかで最高の格式をもつにふざわしい地位と役割を担っていたのです。
〔白根孝胤〕
参考文献
▽林董一「『御三家』の格式とその成立」(『史学雑誌』69-2、1960年)
▽深井雅海『図解・江戸城を読む』(原書房、1997年)
▽白根孝胤「御三家の官位叙任と幕藩権力―尾張家を中心に―」(徳川林政史研究所『研究紀要』第39号、2005年)
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 尾張藩の領地
 慶長5年(1600)9月、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、その戦後処理において、敵対した豊臣恩顧の諸大名への大規模な改易・転封(国替え)を行うとともに、関東の本領6か国(武蔵・相摸・上総・下総・上野の5か国と東海の伊豆一国)に加えて、三河・遠江・駿河・甲斐・南信濃の旧領5か国を回復し、尾張・越前各一国と美濃・北伊勢・近江の一部、さらに、常陸・下野の一部などを領有するに至りました。そして、家康は息子たちを徳川一門として大名に取り立て、領有した諸国の一部に配置することで権力基盤の強化を図り、その一環として、家康の四男松平忠吉は、武蔵国忍10万石から尾張国に転封となりました。ところが、忠吉は同12年3月に28歳の若さで病死し、しかも世嗣がいなかったことから、家康は、同年閏4月に九男の義直を甲斐から尾張へ転封しました。
尾州・濃州御領分絵図(徳川林政史研究所所蔵)
 このように、相次いで息子を尾張へ配置したことから、家康はこの地を重視していたといえます。それは、同13年8月に2代将軍徳川秀忠が発給した領知判物からも裏付けられます。この判物には、義直が尾張一国を領有することが記されていますが、石高が明記されていないという特徴があります。これは、同年7月から幕府の代官頭であった伊奈備前守忠次などによって実施されていた尾張領内の検地(備前検地)がまだ途中で石高が確定していなかったことによりますが、それだけではなく、忠吉の死去後、早急に義直を配置することで、尾張を引き続き家康の支配下に置くことを最優先とした当時の政治情勢が背景にあったと考えられます。すなわち、家康による領国体制の構築において、東国と西国との境界に位置する尾張は、大坂城を中心とする豊臣勢力の動きを監視・牽制し、徳川将軍家の拠点である江戸を防御するうえでの戦略的重要拠点だったのです。
 備前検地によって総高は47万1300石余と打ち出されましたが、その後も美濃国内を中心に加増され、義直の所領は拡大していきました。まず、同17年正月と4月に、美濃国各務郡鵜沼村、羽栗郡円城寺村・竹ヶ鼻村など、7580石余の木曽川流域およびその周辺地域が加増されました。続いて、元和元年(1615)8月には、木曽地域や飛騨地域を中心に3万2282石余、さらに、同5年には、岐阜を含めた美濃国内において5万石がそれぞれ加増されました。木曽地域および木曽川・飛騨川流域、長良川・揖斐川流域を中心とした、軍事的・経済的要衝の地が尾張藩領に編入されていったわけです。
 また、家康の命により義直に付属した重臣たちには、領国支配において、とりわけ名古屋城の防衛という軍事上の意味合いから、要衝の地に知行地が与えられ、本拠地(在所)が定められました。なかでも万石以上の家臣である成瀬氏は領国北方の犬山、竹腰氏は長良川と揖斐川に挟まれた美濃国安八郡今尾、石河氏は木曽川右岸の美濃国中島郡駒塚、志水氏は名古屋城南部の東海道を側面から制する知多郡大高、渡辺氏は東方の三河国加茂郡寺部をそれぞれ在所としたのです。
 こうして、尾張一国のほか、美濃・三河、さらに摂津・近江などの一部も領有し、幕府が定めた尾張藩の領知高は61万9500石となりました。しかし、実際には、寛永12年(1635)の時点で、尾張一国48万3500石余、美濃国内12万7000石余、三河国内5000石、近江国内5000石余、摂津国内232石余となっており、これに木曽山を加えると、63万3000石余に達していました。また、その後の新田開発や檜を主木とする木曽山での収入などを加えると、近世中期以降には、その実高は90万石から100万石近くに達していたといわれています。。
〔白根孝胤〕
参考文献
▽藤野保『近世国家史の研究―幕藩制と領国体制―』(吉川弘文館、2002年)
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 尾張藩の家臣団
 尾張家家臣団は、主として関ヶ原の戦い後に尾張に国替えとなった徳川家康の四男松平忠吉に付属していた家臣団と、忠吉の死後、尾張国主となった九男義直の家臣団によって形成されていました。家臣団を尾張家に仕えた時期ごとに分額すると、以下の表のようになります。
幕下御付属衆 幕臣から尾張家に付属した者で、代々将軍に拝謁できる家
御付属列衆 幕臣から尾張家に付属した者で、将軍に拝謁できない家
初後御部屋付衆 平岩親吉の一族・家臣から義直に近侍した者の家
弓削衆 平岩親吉の家臣で、親吉の死後、義直の家臣になった者の家
御朱印衆 義直が甲斐に封ぜられたときに仕官した、武名ある甲斐出身者の家
駿河詰衆 義直の尾張転封後.平岩親吉家臣・松平忠吉旧臣のうち、駿府で義直に仕えた者の家
甚太郎衆 松平忠吉が松半甚太郎家忠家を継いだとき、忠吉に仕えた甚太郎家旧臣で、ついで義直に仕えた者の家
忍新参衆 松平忠吉が武蔵国忍に封ぜられたときに仕官した者の家
尾張衆 松平忠吉が尾張に封ぜられたときに仕えた在地武士衆の家
清洲新参衆 松平忠吉が清洲で召し出した者の家
外戚衆 義直の生母於亀の方(相応院)の族縁者の家
□臣家 義直の正宰春姫(高原院)の婚姻に従って仕官した者の家
駿河新参衆 義直が幼少時代を過ごした駿府に居るとき、召し出した者の家
元和新参衆 義直が大坂の陣後に召し出した者の家
瑞公御部屋新参衆 二代藩主となる光友が世子のときに召し出した者の家
慶安以後新参衆 光友が二代藩主となって、死去する間に召し出した者の家
 これは、尾張家の儒者松平君山によって編纂され、延享4年(1747)に8代宗勝に献上された『士林泝』という史料による分類で、家臣団を仕官系譜別に16の出自で分類しています。この史料から、尾張家家臣団は、忠吉が武蔵忍城主および尾張清洲城主それぞれの時期に召し抱えた家臣、義直が甲斐・尾張に封ぜられたときに付属した家臣、義直の傅役であった平岩親吉の家臣に、幕臣や義直が駿府に在住していた時期の家臣が加わり、さらに大坂の陣後に付属した家臣や2代光友の家臣を加えて形成されたことが確認できます。
 元和2年(1616)4月に家康が死去すると、初代義直は親政の開始に際して、同6年から家臣に対して知行宛行の黒印状を発給しました。これをふまえて寛永期の家臣団(知行取)を見てみると、1万石以上が5名、5000石以上が4名、1000石以上が70名、500石以上が83名、100石以上が723名であり、100石以上500石未満の家臣が大半を占めていました。その内訳は、最も多いのが忍新参衆で、これに甚太郎衆・尾張衆・清洲新参衆を加えると、松平忠吉の旧臣が3割近くを占めていたことになります。これは、忠吉の旧臣がとくに大坂の陣以前においては尾張家の常備兵力として重きをなしていたことを示しています。また、尾張衆として分類されている在地武士衆(横井・生駒・兼松などの諸氏)は、先祖代々の本領地をそのまま知行地として与えられて家臣化していました。家臣の石高では幕下御付属衆・外戚家・御付属列衆が高禄であり、家康直系の家臣によって藩体制の中枢が固められていたといえます。幕末の安政元年(1854)では、とくに100石以上が931名もおり、下層家臣が増加する傾向にあったことがわかります。
 幕下御付属衆は、成瀬・竹腰・渡辺・石河・山村・千村の諸家のことで、いずれも重臣です。そのうち成瀬家(3万5000石)・竹腰家(3万石)は、家康の命令によって初代義直に仕えて以降、付家老と呼ばれ、当主の補導や幕府との安定した関係の維持を図るとともに、藩体制においては「両家年寄」と称され、藩政の最高職を世襲し、「万石以上」の格式をもつ家柄でした。成瀬・竹腰両家のほか、家康の命令によって付属した渡辺家・.石河家と外戚衆の志水家(初代義直の生母相応院の実家)も「万石以上」の格式であり、この3家が年寄に就任すると、「万石以上」年寄と呼ばれました。また、両家年寄・年寄は同心頭―同心関係を基盤とした一元的家臣団編成の中核でもありました。同心頭―同心関係とは、尾張家に付属した元幕臣や義直の側近を寄親(同心頭)とし、その管理下に家臣(同心)を所属させる方式です。これによって出自が多様な家臣団を統一的に掌握することができたといわれています。例えば、犬山城主でもある成瀬家は、旧平岩親吉家臣団(親吉は慶長16年に死去)のうち4組を当主の成瀬正成に付属させ、そのなかで100石未満の者を犬山城番としています。このように、軍事編成と領国支配の中枢を一体化して、藩体制の基盤を構築したわけです。
 寛永期になると、藩政機構の形成が本格化しました。主な役職を見てみると、まず年寄(家老)は藩政運営の中心的存在であり、合議で政務を執っていました。この時期から用人や国用人・側同心頭といった藩主の側近からの登用が多くなっています(同心頭でもありました)。年寄のなかには「諸大夫」の格式をもつ者がいますが、これは従五位下諸大夫の官位を叙任された年寄のことです。江戸時代では大名の家臣が官位を授与されることは原則として認められていませんでしたが、尾張家は紀伊家とともに6名、水戸家は5名、加賀前田家は4名の定員で家臣の官位叙任が許されていました。なお、両家年寄の成瀬・竹腰両家は必ず優先的に叙任されています。
 当主の留守を預かる城代は、はじめ石河・渡辺・志水の「万石以上」から臨時的に任じられていましたが、やがて常置の職となり、大番頭や用人から起用されましたが、のちに年寄と同列の格式になりました。両家年寄・年寄とともに領国支配を担当していたのが国奉行で、尾張ないし美濃国内藩領の在方支配全般において広域的な権限を有していましたが、寛永中期以降は年寄の支配下におかれることになりました。国奉行の下には郡奉行と代官が属し、郡奉行は知行地を、代官は蔵入地(藩の直轄地)をそれぞれ支配し、尾張と美濃に分掌していました。郡奉行は天明元年(1781)に廃止され、代官が知行地・蔵入地ともに支配することになりましたが、それと同時に代官が任地で執務する「所付代官」の制が始まりました。国奉行は、のちに機構改編で勘定奉行に併せられて、従来の勘定奉行行が勝手方勘定奉行に、国奉行は地方懸り兼公事方懸りの勘定奉行となりました。また町奉行は、名古屋開府の時から設置され、町中を支配しました。定員は2名で、100石から500石の家臣が就任しています。寺社奉行も定員2名で1000石前後の家臣が就任しており、寺社および寺社領の支配や宗門人別改のことなどを担当しました。
 国奉行(勘定奉行)・町奉行・寺社奉行は「三奉行」と呼ばれましたが、そのなかでは寺社奉行が最も格式が高く、用人・国用人とともに「御用列」という格式でした。
 尾張家家臣団の格式は、「万石以上」「諸大夫」「老中列以上」「大寄合以上」「御用列以上」「千石以上」「礼劒」「物頭」「騎馬役以上」「規式以上」「五十人以上」「御徒以上」の12段階で構成されており、「万石以上」から「規式以上」が御日見以上の家臣で、「五十人以上」「御徒以上」」は御日見以下の家臣です。これまで述べてきたとおり、年寄は「万石以上」「諸大夫」「老中列以上」の格式、寺社奉行は「御用列以上」というように、格式に基づいて家臣が就任する役職が定まっていました。
〔白根孝胤〕
参考文献
▽秦達之「初期尾張藩の家臣と給知」(林董一編『新編尾張藩家臣団の研究』、国書刊行会、1889年)
▽前田弘司「十七世紀における尾張藩家臣団の構造―『士林泝』より見た―」(林董一編『新編尾張藩家臣団の研究』、国書刊行会、1889年)
▽白根孝胤「尾張藩年寄の形成過程と政治構造―藤野保編『近世国家の成立・展開と近代』(雄山閣出版、1998年)
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 尾張藩の財政
 初代義直は、財政基盤の拡充を図るため、積極的に新田開発を進めるとともに、正保2年(1645)に「四ツ概制度」を実施して地域ごとに格差があった年貢の免率を四公六民とし、その結果、蔵入地(藩の直轄地)では約16万9000石の増収となりました。しかし、その間に世嗣の光友と3代将軍家光の娘千代姫との婚姻や江戸屋敷焼失による再建などの出費があり、また、2代光友の時は菩提寺である建中寺をはじめ多くの寺社を建立したり、万治3年(1660)の万治大火などたび重なる天災により、藩財政は悪化していきました。寛文6年(1666)9月には金銀貨の通用を停止して「判書」と呼ばれる藩札を発行しましたが、かえって経済活動の停滞を招き、1年半後に廃止することになりました。判書の回収にあたっては、幕府から10万両を借用しており、藩財政に一層の負担をもたらすことになりました。そこで、天和元年(1681)には国用人山内知真を登用して財政改革を断行し、代官の収入であった口米(年貢米徴収の際の手数料)を藩の収入に切り換えたほか、家臣団の新開地を収公するなど藩財政の基盤強化を図りました。3代綱誠以降も倹約を徹底して財政再建に努めましたが、その後も、5代将軍網吉の江戸屋敷訪問にともなう御成御殿の建設、名古屋城下の大火、領内の水害の復旧費用、富士山噴火による幕府への上納金など、多大な出費が相次ぎました。
 江戸中期以降の藩財政を見てみると、6代継友の時期である享保3年(1718)の収支は、金部門では収入11万9041両、支出10万5662両で差引1万3379両の剰余、米部門では収入13万970石、支出11万3741石で差引7229石の剰余があり、これを同年の米価1石=金2両で換算すると、総差引2万7837両の黒字となっています。米部門の収入項日は年貢米越小物成・三升口米などの付加税で、支出項目は江戸下米や家中扶持米などでした。また、金部門の主要な収入項目は年貢金・三役銀(夫銀、堤.役銀、伝馬銀)などで、支出項目は江戸費用や諸役所経費・尾張家一族の入用・家臣団の扶持などです。同13年も総差引2万8167両の黒字を計上しましたが、7代宗春の時の同16年には、総差引2万7064両の赤字に転じ、元文3年(1728)には、総差引14万7585両の赤字と財政が悪化しました。これを継いだ8代宗勝は倹約を続けた結果、延享4年(1747)までに、金部門では2万8288両が不足するものの、米部門は11万4779石の剰余となり、総差引では1万3612両の黒字に転じることに成功しました。
 ところが、9代宗睦の時代になると、宝暦12年(1762)には再び金1万8583両余の赤字に転じるという事態に陥りました。これに対して宗睦は、農政改革を行って年貢米増収策を図るとともに、倹約を実行しましたが、藩財政はなかなか回復しませんでした。これまで藩財政窮乏の際には、家臣へ課していた給禄の一部を削減したり(上米)、富商や富農に調達金を課してきましたが、それも限界に達していました。当時の調達金による藩債総額は22万5500両余に及んでおり、債務整理が急務となっていったのです。そこで、寛政4年(1791)11月、これまでに支払った利息金6万5700両余を元金から控除して、その残額を「米切手」の発行によって償還することにました。領内における商取引や貸借に米切手の通用を奨励するとともに、城下の有力商人を「御勝手方御用達」に任命するなど、彼らの経済力を拠り所として米切手の円滑な通用と信用維持を図りました。また同11年には、幕府に対して15か年年賦の資金10万両の融通を要請するなど、対策を講じましたが、米切手の正貨に対する評価額は低落し、藩債の整理はおろか、藩財政の運営はますます困難になっていったのです。
 こうしたなかで14代慶勝は、倹約の励行と経費節減に徹しましたが、ペリー来航以降、幕末の動乱期における緊急の海防費の増大などにより、財政再建は困難な状況になっていきました。そこで、慶勝は安政3年(1856)に家臣と領内の有力な町人・百姓を城内に召集して財政の窮乏を訴え、調達金などによる援助を求めました。慶勝は家臣と領民が一体になってこの難局を乗り切ろうとしましたが、このときの借財の総額は、177万9182両余りという莫大なものに膨れあがっていました。
〔白根孝胤〕
参考文献
▽所三男「尾張藩の財政と藩札」(林董一編『新編尾張藩家臣団の研究』、国書刊行会、1989年)
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 尾張家歴代の「御条目」
 尾張家では、当主が代替わりすることに「条々」「諸法度条々」と称した「御条目」を公布していました。これは江戸幕府において、将軍の代替わりごとに公布された「武家諸法度」に倣ったものです。「御条目」は、家臣の行動規範を定めた基本法であり、これによって武士としての威信や武家社会の秩序の維持を図ろうとしました。
御家御代々御条目・火事御定
(徳川林政史研究所所蔵)
 「御条目」を公布する際には、名古屋城および市谷の江戸上屋敷に家臣を召集し、儒者などが法令の内容を読み上げ、これを遵守することを家臣に申し渡しました。そこで、ここでは、領国支配において出されたあらゆる法令の根幹をなす「御条目」の特色について見てみたいと思います。
 初代義直は、寛永10年(1633)9月に「定」21か条を発布しました(のちに「源敬様御代御定書」と呼ばれました)。その内容は、喧嘩・口諭の禁止にはじまり、徒党の禁止、「御軍役御定」に基づく武具の準備、番頭・組頭からの命令遵守、牢人や保証人のいない者を抱え置くことの禁止のほか、跡目(家督相続)の規定、衣類や太刀・脇差の規定、饗応時の規定などを含んでいます。この「御条目」は同18年12月に27か条の「条々」として改訂され、第1条に公儀御法度、すなわち幕府の法令を遵守することが掲げられ、第2条では幕府が禁じているキリシタンの取り締まりと宗門改の徹底を命じています。この2項日については、以後の「御条目」にも最初に掲げられることになりました。
 二代光友は寛文9年(1669)3月に「条々」23か条を公布しました。その内容は父義直の「条々」と大きな変更は見られませんが、同時期に婚姻や音信・贈答、衣類、および火事などに関しては別の法令で規定しました。これは、当時藩財政の立て直しが急務な状況のなかで、万治3年(1660)正月に名古屋城下を襲った「万治大火」などの災害によって、その復旧費用で出費が増大しており、家臣への倹約の徹底を図る必要性に迫られていたからです。
 「御条目」は3代綱誠の代に、条文を再構成して11か条としましたが、7代宗春はこれを改訂し、享保17年(1732)2月、21か条におよぶ「条々」を発布しました。この法令は、宗春の政治理念を記した『温知政要』を踏まえたものでした。第1条では歴代の「御条目」と同様に幕府法令の遵守を掲げていますが、第2条では、幕府が許可していることまで藩が禁止する必要はないとも記しています。第3条では、法令が多いのは国の恥辱であるとし、過度に法令で規制を加えることに難色を示しました。新たに追加された第6条では、藩に提出する願書や訴状に不都合な文言があっても、書き替えることはせず、下々の事情が直接上層部に届くようにすることが肝要であると唱えており、民情の把握に努めていたことがうかがえます。また、幕府による倹約令の必要性は認めながらも、饗応や音信・贈答行為が礼節を重んじるうえで重要であると位置づけ、過度に制限することはしませんでした。
 このように、宗春は、幕府の方針を完全に否定したわけではありませんが、八代将軍吉宗による倹約・緊縮財政策は領民の自由を制限して生活を苦しくするものであるとし、法の整備も領民を束縛する禁令の頻発に繋がると批判したのです。人間の個性を尊重し、できるだけ自由に行動することを認めようとした宗春の姿勢は、やがて幕府から不行跡であると咎められ、隠居させられることになりました。そこで跡を継いだ8代宗勝は、元文5年(1740)2月に公布した「諸法度条々」13か条のなかで、「元禄法制」すなわち3代綱誠の「御条目」に復することを宣言しました。これ以後、歴代の「御条目」は概ね「元禄法制」を踏襲することになったのでした。
〔白根孝胤〕
参考文献
▽林董一『尾張藩公法史の研究』、日本学術振興会、1662年)
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 名古屋にあった尾張徳川家の屋敷
 尾張家は、国許と江戸それぞれに複数の屋敷を所持していました。当主が執政し、日常生活を送る屋敷を中心に、休息や饗応のための別邸や、世子や隠居が居住するための屋敷などが、必要に応じて設けられました。
 国許には数多くの屋敷があり、さまざまな形で利用されていました。そのなかで当主と隠居した元当主の居住に関わった主要なものは、名古屋城二之丸御殿と新御殿、および城下の御下屋敷と大曽根屋敷です。

【名古屋城内の屋敷】
尾州二之丸御指図
(徳川林政史研究所所蔵)
 名古屋における当主の居館は、いうまでもなく名古屋城でしたが、その御殿は本丸ではなく二之丸にありました。これは本丸御殿が将軍の宿所としての機能を持ったためで、元和3年(1617)に二之丸御殿が完成すると、初代義直以下、歴代当主の執政と生活の場となったのです。二之丸御殿の空間構成は、南西部が「表」、すなわち政庁で、家臣らが服務する役所と接客や諸儀礼が行われる殿舎と、その北側に当主の住まいである「中奥」、そして東側に夫人らや女中たちの居室がある「奥」が、それぞれ配置されていました。さらに「中奥」のうち当主が日常を過ごした「中御座之間」を挟んで南庭と北庭が展開していました。この庭園は初代義直によって唐風にデザインされたものでしたが、文政5年(1822)以降、10代斉朝によって大規模に改造されて、和風の池泉回遊式の庭園に変貌しました。
 二之丸の堀を隔てた北側の外郭である「下御深井御庭」には、自然景観を活かした庭園が、やはり義直によりつくられましたが、文政10年(1827)、斉朝がこの西端の「西御深井」に隠居御殿の「新御殿」を建造し、斉朝の趣向を反映するために大きく改変されて、御堂や虚構の町屋などが新設されました。新御殿は隠居所であり「表」の空間が省略されて「中奥」と「奥」から構成されていました。文久3年(1863)には、隠居した慶勝の住まいとなりましたが、明治5年(1872)から順次解体されました。

【名古屋城下の屋敷】
 名古屋城下東部(現名占屋市東区葵)にあった「御下屋敷」は、延宝7年(1679)、2代光友が別邸として建設しました。広さ6万4373坪の土地の中央に御殿、その南側・北側に広大な和風庭園が営まれました。宝暦4年(1754)からは、宗春の隠居所として利用され、庭園には京都や東海道五十三次の名所を模した景観が創出されましたが、天明2年(1782)正月14日、城下で起こった火災に巻き込まれ、焼失してしまいました。
 「大曽根屋敷」もまた、光友が元禄9年(1696)に隠居所として自らの生誕地に建造したものです。総坪数13万2097坪に、こぢんまりとした御殿と、その周りに大きな池・小山・林や藪・畑などを配した広大な庭園がありました。光友没後は5万2013坪に縮小して、さらに享保5年(1720)までにもとの所持者であった成瀬・石河・渡辺各家へ戻されましたが、維新後は再び尾張徳川家が所持して、明治22年(1889)には大曽根邸が建造されました。昭和に入って一部を徳川美術館とし、他の邸宅と庭園は名古屋市に寄付されて、現在それが徳川園となっています。
〔渋谷葉子〕
参考文献
▽『江戸のワンダーランド 大名庭園』」(徳川美術館、2004年)
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 江戸にあった尾張徳川家の屋敷
 尾張徳川家は、江戸にも多くの屋敷を所持していました。幕末の安政3年(1856)に幕府作事方が作成した史料によれば、幕府からの拝領屋敷が30筆、自ら購入した抱屋敷が8筆、その他(拝借地・預地など)5筆の計43筆が書き上げられています。この総坪数は31万1000坪余にのぼり、屋敷数・坪数ともに諸大名のなかで最大規模を誇っていました。このうち主要な機能を有したのが、市谷・麹町・戸山の屋敷です。

【市谷屋敷】
 江戸屋敷のうち上屋敷、すなわち当主の居館=「居屋敷」で政庁も置かれ、当主の正室ら一家および家臣団が居住したのが市谷屋敷です。はじめ上屋敷は、江戸城半蔵門内(現皇居吹上)に幕府より拝領した鼠穴屋敷でしたが、明暦3年(1657)に召し上げとなり、この前年である明暦2年(1656)に拝領していた市谷屋敷がその後継とされて、以後歴代の居屋敷となりました。江戸城外堀市谷門外の西方(現東京都新宿区市谷本村町)に位置し、江戸城西北部守衛の拠点とされ、一帯は拝領当時、江戸の外れで非常に寂しかったのですが、市谷屋敷が出来て大いに繁昌したといわれています。当初、坪数は4万9993坪余(京間坪)で、寛文2年(1662)・同六年(1666)に東隣の寺地など5939坪(田舎間坪)を購入して囲い込み、さらに明和4年(1767)に西側地続き2万4741坪(京間坪)の添地を拝領して大幅に拡張しました。
市谷御殿絵図(徳川林政史研究所所蔵)
 当主の住んだ御殿である「御本殿」は敷地東部にあり、南半分が「表」、その北西部が「中奥」、そして北半分が「奥」という構成となっていました。このうち「中奥」の庭園近くは、代々の趣味嗜好を反映して新築や増・改築されたプライベートな空間で、建築物からそれぞれの個性を窺い知ることができます。また「奥」は当主の正室を主人として、その出自に応じた格式の殿舎が作事され、専用の門と玄関、接客の間などを備えていました。10代斉朝までの正室はほとんどが将軍家および公卿の出身で、最高格式の「御守殿」が営まれ、また11代斉温以降は人ごとに、11代斉温夫人の愛姫の「菊御殿」や、12代斉荘夫人の猶姫の「柏御殿」など、居室に個別の呼び名が付されるようになりました。
 「御本殿」の西側は庭園で、9代宗睦により池を中心に築山や大原・数寄屋などを配した回遊式庭園に整備されて「楽々園」と名づけられました。庭園趣味で知られた11代将軍徳川家斉も何度か訪れ、天保年間(1830〜44)には名勝を選定して「楽々園四十八称」が命名されて最盛期を迎えます。また大名家では、庭園に窯を設けて「御庭焼」を焼いて贈答や家臣への恩賞などに用いましたが、尾張家でも、12代斉荘が楽々園内に焼物の細工場を作って「楽々園焼」を焼成しました。
 さらに庭園の西側、添地された敷地には、「西御殿」が建造されて中屋敷的な機能を果たすようになりました。この御殿は恒常的なものでなく、御殿のない時期には意外にも畑地とされて、出入り農民や家臣たちにより野菜などが栽培されました。
 二つの御殿と庭園の周囲には、家臣が住まう長屋が配されていました。江戸勤仕の家臣には、家族と江戸に常住する「定府」と、数か月から数年の間単身で江戸住まいする「定詰」があり、いずれもほとんどが貸与された長屋に居住していました。長屋には平家と.2階建てがあり、間口は広狭あるが2〜5間(約3.6〜9.0メートル)のものが多く、各戸に厠・湯殿・流し・囲炉裏が備わり、また前庭があって、その一部には火災時に家財を避難する地下室の「穴蔵」が設けられていました。「穴蔵」は御殿にも多く掘削されており、火事の多い江戸ならではの施設といえるでしょう。
 長屋は、市谷屋敷はじめ麹町・戸山など諸屋敷に設置されましたが、江戸勤仕の家臣総数は、その奉公人も含めて5000〜6000人以上にのぼったと考えられ、幕末に40筆以上所持した屋敷の多くは、家臣団の長屋用地だったと考えられます。
 さて幕末は、慶応四年(1868)までに当主一家・家臣団とも帰国し、間もなく市谷屋敷に板垣退助率いる土佐・因幡藩兵が繰り込んで江戸城総攻撃の前線基地地とされ、江戸城の守衛から攻撃の拠点へと逆転しました。明治2年(1869)、再拝領を願っていったんは尾張家の所有に戻りますが、同4年(1871)には兵部省用地として召し上げられ、以後は一貫して陸軍用地となり、現在は防衛省の敷地となっています。

【麹町屋敷】
 麹町屋敷は、寛永14年(1637)、江戸城外堀の四谷門内(現東京都千代田区麹町)に拝領した屋敷です。明暦2年(1656)に市谷屋敷拝領の代地として返上しましたが、翌3年に再下賜されました。寛文6年(1666)に南東部200坪ほど、元禄10年(1697)に北東部2500坪余(田舎間坪)を添地として拝領し、総坪数1万7870坪余となります。御殿と長屋を備えて、臨時の居屋敷および世子居宅、すなわち中屋敷として主に機能しました。所持する屋敷のうち江戸城に最も近かったためか、元禄11年(1698)には5代将軍徳川網吉の「御成」先とされ、この公的儀式専用の「御成御殿」が設けられました。
 市谷屋敷の「西御殿」が中屋敷的に機能するようになると、御殿は利用がなくなり、結局老朽化のため取り壊されました。その跡地2000坪は文化5年(1808)、出入り農民の中村家へ貸し付けられ、同家は金20両を投資して畑地としました。地性もよく作柄もまあまあだったといい、同12年(1815)からは貸与を中止して家臣の手作り地として「年貢金」を上納させることになりました。
 以後、再び御殿は建てられることなく幕末を迎え、明治2年(1869)に政府に接収されました。

【戸山屋敷】
 戸山屋敷は寛文8年(1668)、和田戸山(現新宿区戸山〉に避災用の抱屋敷4万6000坪余を購入したことに始まります。同11年(1671)、幕府に添地の下賜を願い出て抱屋敷の北西側一帯8万5000坪余を拝領し、次ぐ延宝年間(1673〜81)、数次の隣接地購入を経て拡張、13万坪以上におよびました。当初の抱屋敷を御殿地、添地とその後の購入地を庭園とし、避災邸と休息用の別邸を兼ねた下屋敷として整備しました。その後は、南東側を順次抱屋敷にして長屋を設けています。
戸山御庭之図
(徳川林政史研究所所蔵)
 庭園には、2代光友の嗜好により、当初から東海道小田原宿を模した町並「御町屋」など、趣向を凝らした施設が多数造られましたが、元禄13年(1700)の大地震で建物の多くが被害を受けて撤去されました。以来庭園は荒廃して、しばらくは専ら避災邸として利用されていましたが、天明末年(1787〜89頃)から9代宗睦により庭園の再整備に着手され、遊びや仕掛けを随所に盛り込んだ「戸山荘」に再生されました。天明8年(1788)には「戸山荘二十五景」が選定されて、翌年からは将軍家斉が何度も訪れ、「すべて天下の園池は当にこの荘をもって第一とすべし」と激賞したといわれ、その名園ぶりは多くの見聞記や絵図・絵巻、14代慶勝撮影の古写真などが伝えています。
 また近年、発掘調査で「龍門の瀧」の遺構が発見されました。「龍門の瀧」には滝つぼの飛び石を通過すると急に水嵩が増し、来た道がみるみる水没するという驚きの仕掛けがありました。現在、徳川園の日本庭園に、出土した石材の一部を用いて、往時の仕掛けとともに蘇っています。12代斉荘は御庭焼「戸山焼」を焼成しました。
 明治2年(1869)、再拝領願により戸山屋敷は再び尾張家の所持となりましたが、翠3年に徳川宗家(旧将軍家)の三田綱坂邸との交換で手放すことになります。明治7年(1874)、ここもまた市谷邸跡同様、陸軍用地に転用されることになり、現在、その一部が戸山公園となっています。
〔渋谷葉子〕
参考文献
▽『尾張家への誘い』(新宿歴史博物館、2006年)
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